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PHASE 11 「最善の選択」  

 案の定、翔がヴォルフと戦闘した噂はまたたく間に街中に広がった。しかも、数日経つと一緒にいたグランドキーパーが重傷を負ったとか、実はすでに死亡しているがグランドキーパーたちがその事実をひた隠しにしているなど、根拠のない噂までついて広まっている有様だった。

 しかし、噂の広がりとは裏腹に、翔自身に直接真相を確認しようと話しかけてくる者はいなかった。むしろ、翔を腫れ物でも扱うように関わり合わないようにしようとする者がほとんどだった。翔自身、シティキーパー以外は他のプレーヤーと一緒に過ごすことはなかったためそれほど気にはならなかったが、街などを歩いているとあからさまに避けるような人々の態度が目に付いた。

 それも致し方ないことだと、翔は思っていた。それに、腫れ物扱いされるのは今に始まったことではなかった。シティキーパーになった時点で、グランドキーパー同様に妬みと軽蔑の眼差しで見られていたことは変わらなかったからだ。

 あの事件があってから、既に1週間ほどたっていた。最初はグランドキーパーやシティキーパーたちの間でも不安の声が広がっていたが、何もなく1週間が過ぎると、とりあえず落ち着きを取り戻していた。

 翔はグランドキーパーの宿舎へと向かって歩いていた。富野間の号令で、グランドキーパーとシティキーパーに招集がかかったからだ。

 富野間に頼まれた外部の調査は、未だ進んでいなかった。というより、あれ以来まだ街の外に出たことはなかった。翔の中で、一度外に出たらもう戻って来られないような気がしていたからだ。もともと、4匹ものヴォルフに勝てたのも奇跡に近い。またヴォルフと遭遇して、無傷でいられる自信は正直ほとんどなかった。そもそも、一人で外部の調査をすること自体が無謀なことなのだ。

 マサハルはその危険を冒して何度も街の外へと調査に出ているのだから、敬意を払わざる得ない。もっとも、彼は元々レンジャータイプの職であったため、隠密行動に適したスキルを持っている。ヴォルフのような上位クラスのモーヴには効果は弱いが、通常のモーヴであれば気配を察知されないよう移動することが可能なはずだった。

 グランドキーパーの宿舎に着くと、すでに広間にはメンバー達が集まっていた。しかし、そこに富野間の姿はなかった。壁に寄りかかるように立っているマサハルを見つけると、翔は彼の元に歩み寄った。

「今日は何の目的で集まったのか知ってるかい?」

 翔が尋ねると、マサハルは両手を広げ、わからないといったジェスチャーで答えた。

「そろそろ全員集まったわね」

 有紀の声が響いた。広間の前方に目を向けると、有紀が全員を見まわすようにして立っているのが見えた。

「これから、新しいメンバー表を配るわ。みんなもわかっていると思うけど、これはもちろん先日あった出来事に対応するためのメンバー変更よ。基本的に、これからは三人一組で行動することになるわ。これからそれぞれにメンバー表を配るから、自分のメンバーと各業務の時間帯はそれで確認して頂戴。話はそれだけ。メンバー表を受け取ったら、各自仕事に戻っていいわよ」

 そう言って有紀は一人一人に紙を配り始めた。最期に翔とマサハルのところに歩み寄ると、有紀はメンバー表を渡しながら翔に言った。

「こんなことしても、焼け石に水なのにね」

 翔は苦笑しながら受け取ったメンバー表に目を向けた。しかし、どこを見ても翔の名前は表の中に見あたらなかった。

「どういうことだ?カケル」

 表を確認したマサハルがそう尋ねてきた。翔は先ほどのマサハルを真似るように両手を広げ、わからないといったジェスチャーで答えた。

 しかし、これは恐らく本格的に調査を開始しろと言う彼の意思表示なのだろうと、翔は思った。

 翔はマサハルと一緒にグランドキーパーの宿舎を出ると、自分の部屋へ向かう道に足を向けた。すると、マサハルが翔の肩をぽんと叩き、別の方向へ誘うような仕草を見せた。

「カケル、ちょっと付き合ってくれ」

 マサハルはそう言うと、人気の少ない路地に向かって歩き出した。翔は、彼に従うようにそのあとを歩いた。

 路地に入るとマサハルは倉庫に使われている建物の脇にある階段を登り、その屋上に出た。他の建物より少し高く建てられているため、街全体を一望できた。

「どうしたんだ?マサハル」

 街並みを眺めながら、翔は足を止めたマサハルにそう尋ねた。

「街の外のことで、ちょっと気になることがあってな」

「何かわかったのか?」

 翔がそう尋ねると、マサハルは首を振って見せた。

「まだ何とも言えないけどな。調べると言っても、やはり行動できる範囲が限られているからな。ヴォルフみたいな上位モーヴが徘徊してるとなると、さすがの俺も慎重になるよ」

「それで気になることって?」

「それなんだが、昨日おかしなところ見たんだ。徘徊しているモーヴの集団とヴォルフがやりあってるところをな。モーヴがモーヴを襲うなんて話聞いたこともないだろ?でも、ヴォルフとまともにやり合おうって気はないみたいだな。まるで、ヴォルフを誘うように攻撃しては逃げる、の繰り返しなんだよ。変だろ?」

「何でそんなことを?」

「さあな。でも、モーヴの集団は確実に街に近づいてきている。ヴォルフを引き連れてな」

 マサハルは一息入れると、翔の反応を見るかのように翔を見やった。

「明日、明後日には大量のヴォルフが押し寄せてくるかも知れない。・・・覚悟を決めておいた方がいいかもな」

 マサハルはそう言うと、屋上から見える街並みを眺めた。

「なあ、カケル。俺たちの向かうべき道はどこにあると思う?この世界は、俺たちに何を求めてるんだろうな」

 マサハルは街並みを眺めながら翔にそう問いかけると、答えを待たず歩き出した。彼は翔に軽く手を振ると、そのまま屋上から降りていった。

 翔はしばらくマサハルの問いに対する答えを考えていた。しかし、いくら考えても答えは出てこなかった。翔は考えるのを諦め、階段を降りるとそのまま自分の部屋へと向かった。

 翔は自分の部屋の前につくと、部屋の鍵を開けようとした。しかし、鍵は空振りするようにくるっと抵抗なく回った。鍵が既に開いていたことに気づくと、翔はそのままドアを開け中に入った。

「あ、カケルさんお帰りなさい」

 部屋の中では、フィーナがエプロンを着て掃除をしている最中だった。彼女は笑顔で翔を迎え入れた。

 彼女は基本的に有紀のところでグランドキーパーの宿舎の清掃を担当しているはずだが、暇ができると翔の部屋にやってきて片付けや掃除をしていくようになっていた。特に断る理由も思い付かず、気づけばいつの間にかそれが至極当然のようになっていた。

「勝手に入ったりして、ごめんなさい。留守みたいだったから」

 フィーナはそう言いながらも、鼻歌交じりに部屋の掃除を続けていた。

 フィーナは、あれから人が変わったように明るくなった。よっぽど楽しいのか、いつも笑顔を絶やさない。ここの宿屋の管理をしている者ともすでに顔見知りになっており、翔の部屋の鍵をいつでも受け取れるような状態になっていたため、事実上翔の部屋にも自由に出入り可能になっていた。

「今日ね、グランドキーパーの人に食料と道具をいくつかわけてもらったの。ねえ、食堂の食事は変わり映えがなくて飽きたでしょ?せっかくだから、何か作ろうかと思って。あの人たち、隠れて色々な物を持ってるのよ」

 フィーナは屈託のない笑顔でそう言いながら、翔の部屋の片付けを進めていた。それほど物があるわけではないから、片付けると言っても特別すべきことはないように思うのだが、彼女はせわしく部屋の中を行ったり来たりしている。しかし、翔はそんな彼女の後ろ姿を見ながら、心が安らいでいくのを感じていた。

 それが、恋愛的感情なのかどうかは翔にもわからなかった。ただ、彼女を守ってあげたいという気持ちがあることは確かだった。翔が外部の調査に二の足を踏むのを躊躇うのも、彼女の存在があったからかもしれない。

 しかし、確かにいよいよ心を決めなければいけないときなのかも知れないと、翔は考えていた。富野間の真意がどこにあるのかはわからないが、マサハルの言うようにこの街も必ずしも安全とは言えないのだ。

 ヴォルフとの戦い以来、翔の中で何かが吹っ切れたような気がしていた。以前は、自分にできることなどないのではないかと落ち込む日が続いていた。明確な答えはないものの、今は何かしら行動しようという意志がある。もし自分が変わったのだとしたら、それはフィーナによってもたらされた面もあるように翔は思った。彼女が翔の生活にひとときの安らぎを与えてくれているのは確かだ。

「どうしたの?」

 翔がじっとフィーナの姿を見つめていると、彼女が視線に気がつき不思議そうにそう聞いてきた。

「いや、なんでもないよ」

 翔がそう答えると、フィーナは笑顔を見せそのまま食事の用意を始めた。

 守るべきものがあるというのは、時に人を弱くするのだなと、翔は改めて思った。大切なものが増えるほど、人は臆病者になる。しかし、だからこそ強い意志を持つこともできる。

 翔はおもむろに立ち上がると、食事の支度をするフィーナに歩み寄った。翔の気配に気がつくと、フィーナは振り返り不思議そうに翔を見やった。翔は、無言のままその華奢な体を抱きしめた。

 フィーナは一瞬体を強ばらせ、思わず持っていた箸を床に落とした。しかし、すぐに体の力を抜くと、体を委ねるように翔の背中に腕を回した。

「どうしたの?」

 フィーナは優しい口調でそう言った。

 しかし、翔はその問いには答えず、一旦彼女を抱きしめていた腕をほどくと、彼女の唇に軽くキスをした。彼女は、まるで予測していたかのようにそれを受け入れ、再び翔に抱きつくとその唇を翔の唇に強く押しあててきた。

 翔はさらに強く彼女を抱きしめ、彼女が求めるがままに唇を交わし続けた。

 

 ベッドですやすやと眠るフィーナの寝顔を見ながら、翔は気がつかれないように部屋を出た。

 今更決心が揺らぐことはないが、もし彼女が知った場合にどんな行動に出るか予想ができなかったからだ。知らないことは、知らない方が彼女にとっても良いと思った。

 自分は死にに行くわけではないのだから、と翔は硬く心の中で呟いた。何としても帰ってこなければならない。フィーナと一夜を共にしたのも、翔なりの決心の証でもあった。

 翔は外に出ると、まだ薄暗く街灯の灯りが照らす街並みを歩いた。

 翔にとって、この街は決して心の落ち着く場所ではなかった。それでも、やはりこの街は今の彼にとっては掛け替えのない場所なのだと思えた。これからどうなっていくかはわからない。それでも、守るべきものがこの街にはある。そう思うと、翔は妙にこの街に愛着が湧くのを感じた。

 翔は西ゲートに着くと、もう一度街並みを振り返り、朝霧の中に佇む街並みを眺めた。翔はしばらく街並みを眺めたあと、意を決するように街に背を向けゲートの外へと歩き出した。

 目の前に広がる森は、物音一つなく静かに佇んでいる。とりあえず、モーヴの気配は感じなかった。翔は足音を潜めながら森の中に入ると、辺りを見まわしながらゆっくりと進んだ。

 しばらく進むと、僅かだが空気の流れが変わるような感覚を覚えた。翔はすぐさま剣の束に掴むとその場に立ち止まり、薄暗い森の中に目を凝らした。

「ははは、そんなに張り詰めてちゃ、モーヴに見つけてくれって言ってるようなもんだぜ。殺気がむんむん出てるよ」

 その告げる声が聞こえたかと思うと、木の陰からマサハルが姿を現した。マサハルは木に背をもたれかけるように立ち、いつもの気楽な表情で軽く挨拶するように片手を上げた。

「マサハル」

「いや、待ってたわけじゃないぜ。偶然だよ、偶然」

 マサハルは戸惑いを見せる翔にいつもの口調でそう答えた。

「で、どうするつもりなんだ?闇雲に歩いてたって、何にもならないぜ」

 マサハルはそう告げると、翔に歩み寄ってきた。

「案内役が必要だろ?」

 マサハルは翔の肩を叩きウインクをしてを見せた。翔は、すっと肩の力が抜けていくのを感じ、ほころんだ笑顔を見せるとマサハルに頷いて見せた。

「そうだな。頼むよ、マサハル」

「俺たち、つくづく損な役回りだよな。こんなことしたって、誰も誉めてくれやしないぜ。でもまあ、仕方ないか」

 マサハルはそう言いながら歩き出した。翔はその後ろ姿を見ながら、今更ながらにこの友人がいたことを有り難く思った。

「ありがとう、マサハル」

 翔は先を行く友人にそう声を掛けた。マサハルは、何を今更という顔つきで翔を振り返った。

「俺は俺で守りたいものがあるだけだよ」

 マサハルはそう言うと、再び前を向き森の中を進んでいった。翔は辺りに注意を払いながら、彼の後を追った。

 森の中は、奇妙なほどに静まりかえっていた。しかし、良く耳を澄ますと小鳥のさえずりや虫の鳴き声が微かに聞こえた。垂れ下がる木の枝にふと目を向けると、小さな虫がゆっくりと枝の上を歩いている。

「不思議なもんだな。ときどき、ここが地下に作られた人工のフィールドだってことを忘れることがあるよ。まあ、この森の木は偽物ってわけじゃないからな。鳥や虫がいたっておかしくはないんだけどな」

 翔が目の前の虫に見入っていると、マサハルが横でそう言った。

「人は何でこんな世界を作り上げたんだろうな。たかがゲームのために」

「そのことなんだけど」

 翔はそう前置きすると、歩きながら以前有紀が語っていたアルダリスシステムについての彼女の考えをマサハルに話してみた。正直、翔自体が有紀の仮説のすべてを理解してる訳ではなかったので、正しくマサハルに伝わったかどうかはわからなかった。マサハルは一通り聞いたあと頷くと、考え込むように腕を組んで歩いていた。

「まあ、アルダリスシステムが国家レベルの事業だってことは納得できるな。・・・さしずめ俺たちはシュレディンガーの猫ってことだな」

「シュレディンガーの猫?」

「ああ。量子力学をマクロ的に例えた場合の仮想実験のことだよ。ある密閉された箱に猫が入れられている。その箱の中は誰も見ることができない。箱の中には放射性物質ラジウムと青酸ガスの発生装置が入っている。そして核分裂を検知したら、発生装置が青酸ガスを放出するようになっている。ラジウムってのは不安定な放射性物質で、いつ核分裂を起こすかわからない。量子力学的にとらえると、このとき箱の中には生きている猫と死んでいる猫が重なり合って存在してることになる。それが、『シュレディンガーの猫』さ」

「確かに。この密閉された空間で、俺たちは生死の狭間をさまよってる。そしてその運命のサイコロは、いつ暴走するか分からないアルダリスシステムが握っている」

 翔は歩きながらそう答えた。

「俺たちはモルモットにされたってことだな」

 マサハルの言うとおりかも知れない、と翔も思った。もしこれがあらかじめ仕組まれたことであれば、オフラインゲームの参加者はすべて実験台として利用されたと言うことだ。何を目的にしているかは皆目検討はつかないが、アルダリスシステムは本来の機能を始動させ、まさに翔たちの運命の糸を操っていると言えるのだろう。

「でも、アルダリスシステムが何なのかなんて俺たちの知ったことじゃない。俺たちにできることはひとつ。生き抜いて、ここから脱出することだ」

 翔はマサハルの言葉に深く頷いた。マサハルの言う通りだ。ただ、自分たちは生き延びてここから脱出したいだけなのだから。

 翔はおもむろに空を見上げた。空からはすでに青みを帯びていたが、木々の隙間から漏れる光も、翔たちの足元までは届いてこなかった。目の前には深い森へと続く暗闇が、まるで翔たちを飲み込まんとばかりに佇んでいた。

「カケル静かに。ここから先はモーヴやヴォルフがいる可能性が高い。モーヴとヴォルフがやり合っているのを見たのはもう少し先だが、もうこの辺りまで進んできていても不思議じゃないからな」

 マサハルはそう言うと、今までとは打って変わって慎重な仕草で茂みの中を進み始めた。翔は、彼に習うようにその後を身を潜めて進んだ。確かに、先ほどと変わって不気味な雰囲気が感じられる。途端に空気の流れが重くなったように感じられるのだ。

「それで、カケルはヴォルフたちをどうするつもりなんだ?」

 マサハルは囁くようにそう尋ねてきた。

「うん。問題はヴォルフたちじゃないと思うんだ。昨日、モーヴがヴォルフを誘い出してるんじゃないかって言ってただろ。まずは、その目的が何なのか突き止める必要がある」

「そうだな。同意見だ。ヴォルフはざっと見ただけでも30体以上はいると見積もっていいと思う。そんなたくさんのヴォルフを相手にするのは得策じゃないしな」

 マサハルはそういうと一旦立ち止まり、身をかがめるようにして翔に顔を向けた。

「実は、この森の奥に洞窟がある。俺が最初にヴォルフを見たのもそこだ。ヴォルフはその洞窟をまわりを囲むように徘徊していた。まるで、その洞窟を何かから守るみたいに。さすがの俺も近づくことすらできなかったからな」

「ヴォルフはその洞窟のガード役ってことか」

「そう考えるのが妥当だろうな。モーヴたちの目的が、ヴォルフを街におびき寄せることにあるのか、またはその洞窟にあるのかは分からない。とにかく言えるのは、その洞窟には何かがあるってことだ。今は、モーヴたちの攻撃でヴォルフたちの徘徊範囲が広がっているせいで、そこまで辿る着くことすら難しくなっている。でもカケルと2人なら、なんとか辿り着くことができるかも知れない」

 マサハルはそう言うと、再び歩き出した。

「おい、あれ」

 先を進むマサハルが振り向き、小さな声でそう言った。マサハルが指さすその先には、辺りを見まわしながら徘徊するヴォルフの姿があった。数えただけでも8体はいる。

 マサハルと翔は一旦近くの岩の後ろに隠れ、息を潜めヴォルフたちの動向を窺った。どうやら、その他のモーヴたちは近くにはいないようだった。

「さあ、どうする?ヴォルフ8体・・・いけると思うか?」

 マサハルはなるべく小声で話せるように翔に顔を寄せると、そう尋ねてきた。

「うまく分散させることができれば何とか」

 翔はヴォルフを岩越しに見つめながら答えた。

「よし・・・俺が範囲攻撃でヴォルフを引きつける。その隙に一体ずつヴォルフを排除してくれ」

 マサハルはそう言うと、もう一度ヴォルフを見て唾を飲み込んだ。その巨大な体は、自分たちの2倍ほども背丈がある。

「一撃でも食らったら終わりだな」

「・・・ちょっと待ってくれ、マサハル」

 翔は動き出そうとするマサハルの肩を掴み、そう声を掛けた。マサハルは、出鼻を挫かれたようなほっとしたような複雑な表情を見せた。

「俺たちの目的はヴォルフ退治じゃない。今は、ヴォルフを街から遠ざけることが先決じゃないか?」

「・・・それはそうだが、他にもヴォルフが徘徊してる可能性は高い。誘導するのはいいが、ヴォルフがこれ以上増えたときうまく逃げ切れる自信があるか?」

 神妙な顔つきでマサハルはそう尋ねてきた。

「ある」

 嘘だった。翔のスピードでは恐らくヴォルフから逃げ切ることはできないだろう。しかし、偵察職のマサハルなら翔が囮になりさえすれば逃げ切れるはずだった。

「・・・却下だな。カケルの魂胆は見え見えだ」

 マサハルはそう言うと再びヴォルフに視線を向けた。

「よし、俺は向こう側に回ってそこからヴォルフを誘う。獣笛の音が合図だ。俺はなるべく奴らを攪乱させるように遠隔攻撃する」

「・・・わかった」

 翔が渋々頷くと、マサハルは握り拳を差し出してきた。翔は、それに答えるように自分も握り拳を差し出し、差し出された握り拳に軽く当てた。

 マサハルはそれを合図にするように、すっと岩陰から出て行こうとした。翔は再び引き留めるようにマサハルの肩を掴んだ。

「絶対に、生きて帰るんだ。絶対に」

 翔が言うと、マサハルは緊張していた顔を綻ばせ微笑んで見せた。

「当たり前だ」

 マサハルはそう告げると、岩陰からそっと抜けだしヴォルフを迂回しながら茂みを進んでいった。翔は、ヴォルフに気づかれまいかとハラハラしながら彼の姿を目で追った。しかし、しばらく進むと彼の姿は茂みの中に埋もれ、まったく見えなくなった。翔は、マサハルが進んでいるはずの茂みを凝視し、彼が目的の場所まで辿り着く時間を数えながら待った。

 しばらく沈黙が森を支配していた。翔は、じっとマサハルが獣笛を鳴らすのを待った。自分が少しでも遅れれば、マサハルの身が危険にさらされることになる。翔は、ヴォルフの姿を確認しながら、もっとも効率よく倒していく順番を頭の中で整理していた。

 しかし、マサハルの獣笛が鳴り響く前に、翔の背後からシュッと何かが飛び出していく音が響いた。音はそのままヴォルフに向かって進み、ザクリという音と共にヴォルフの足元に突き刺さった。ヴォルフは鋭い爪を高々と上げ、足元に突き刺さった矢を怒り狂ったように踏みつぶすと、突然翔のいる方向に向かって突進してきた。

「なっ!」

 翔は矢が飛んできた方向を思わず振り返った。翔たちと同じ背丈くらいの獣人らしき姿が素早く木の間を横切るのが見えた。

「待ち伏せされた?つけられていたのか!」

 翔は叫びながらも、突進してくるヴォルフに視線を戻した。ヴォルフは、他には目もくれず翔に向かって突進してきてた。

 先頭を走ってきたヴォルフがその巨体を中に浮かせ、上から覆い被さるように翔に飛びかかってきた。避ける暇もなく翔は飛びかかってきたヴォルフの体の下に埋もれた。

「カケル!」

 予期せぬ状況になっていることに気がついたマサハルは茂みの中から姿を現しそう叫んだ。しかし、すでに翔がいた岩陰はヴォルフに囲まれ、まったく翔の姿は見えない状態だった。マサハルは、すぐさま弓を取り出しヴォルフたちに向かって弓を射った。しかし、遠くからでは威力がなく、放たれた矢はおもちゃのようにヴォルフの背中を跳ね返り地面に落ちた。

「ちくしょう!」

 マサハルは叫ぶと、再び弓を構えながらヴォルフに向かって走り出した。ヴォルフたちはマサハルを無視するかのように、取り囲んだ翔に目掛けて何度も斧を振り下ろしていた。

 マサハルは至近距離まで近づくと、迷わず目の前のヴォルフの背中に目掛けて矢を射抜いた。矢はヴォルフの背中に突き刺さり一瞬その大きな体がよろけた。しかしヴォルフは何事もなかったかのように体勢をたち直すとマサハルの方を振り返り、斧を振り上げ怒りに満ちた咆哮をあげた。

 しかし、マサハルが次の矢を射ろうとした瞬間、突然ヴォルフは力を失いその場に崩れ落ちた。

 倒れたヴォルフの更に奥に、もう一体のヴォルフが倒れているのが見えた。そのヴォルフの体の隙間から翔の腕が伸び、その先に突き出された剣は今しがたマサハルが射抜いたヴォルフの体を突き刺していた。

「カケル!」

 マサハルが叫ぶと同時に、翔はさらに他のヴォルフに剣を突き出した。致命傷には至らなかったものの、ヴォルフは痛みに耐えるようなうめき声を上げ、その場に足膝をついた。翔はその隙に覆い被さっていたヴォルフを振り払うと、転がるようにマサハルの足元へと飛び出してきた。

「大丈夫、まだ生きてる」

 翔は驚くマサハルの顔を見上げるとそう言った。翔自身、あの状況でよく生きていられたものだと思った。最初のヴォルフが飛びかかってきたとき、咄嗟に剣を突き出したのが功を奏したのだ。勢いよく飛びかかってきたヴォルフは、翔の突き出した剣で串刺し状態になり、そのまま翔に覆い被さるように倒れた。そのヴォルフの体が盾となり、ヴォルフたちの攻撃を防いでくれたのだ。

 翔は立ち上がるとヴォルフたちの方を向いて剣を構えた。ヴォルフたちは立て続けに2匹のヴォルフが倒されたことで慎重になったのか、すぐには襲いかかってこず、翔たちを睨み付けるようにその場で唸っていた。

「まだあと6匹・・・不利な状況に変わりはないな・・・」

 そう呟くマサハルに同意するように翔は頷いた。

「作戦を変更しよう。とりあえず逃げるしかない。こいつらを、とにかく街から遠ざけるんだ。今はそれしかない」

 翔はそう言いながら、剣を構えたままゆっくりと後ずさった。マサハルもそれにあわせるようにゆっくりと後ずさり、苦渋の顔つきで頷いて見せた。

「・・・仕方ないな。どうやら今はそれが最善の選択みたいだ」

 マサハルはそう言うと、先が複数の鏃に分かれた矢を構え撃ち放った。矢は手元で分裂すると、複数の矢となってヴォルフに突き刺さった。

 それと同時に二人は一斉に走り出した。意表を突かれたヴォルフたちは怒りの咆哮をあげ、自らの体に突き刺さった矢を乱暴に抜き取ると、翔たちに数秒遅れて走り出した。

 翔たちに後ろを振り返る余裕はなかった。ただ、少しずつヴォルフたちが近づいてきている気配は感じられた。

 しかし森を進むにつれ、段々と木々の密集度が増してきていた。小柄な翔たちの方が、込み入った森の中を進むには有利だった。翔たちより一回りも大きいヴォルフたちは、乱暴に木々を払いながら突き進んでいた。

「よし、このままならうまく逃げられるかも知れない。ここで二手に別れよう!」

 マサハルは走りながらそう翔に叫ぶと、ヴォルフたちの位置を確認するように後ろを振り向いた。ヴォルフたちは、翔たちの30メートル程後方を追ってきていた。

「翔はここから左の方へ迂回しながら先へ進んでくれ!そのまま北へ1キロほど進んだ先に洞窟がある!そこで落ち合おう!」

 マサハルはそう言うと、立ち止まりヴォルフたちの方を振り返った。

「マサハル!」

 翔も立ち止まると、弓を構えるマサハルに叫んだ。

「早く行くんだ!俺だけなら、何とか逃げられる!」

 マサハルは翔の方に顔を向けそう叫ぶと、すぐにヴォルフの方に向き直り矢を打ちはなった。矢はヴォルフたちには命中しなかったが、警戒したヴォルフたちは一旦その場で足を止めた。

「早く!行くんだ!」

 マサハルはもう一度そう叫ぶと、もう一度慎重に狙いを定めるように弓を構えた。マサハルの放った矢は、今度は6対中4体のヴォルフに見事命中した。マサハルはそれを見届けると、頷くように一瞬だけ翔に視線を向けると、そのまま森の中を翔とは反対方向に走り出した。ヴォルフたちは怒りを露わにし、マサハルの後を追うように走り出した。

 翔は躊躇しながらもマサハルに従い右方向へと走り出した。途中マサハルの逃げていった方向に目を向けると、マサハルはすでに森の中へと姿を消していた。さらにヴォルフたちに目を向けると、矢が命中した4体はマサハルの後を追ったようだが、残る2体は翔に気がつきこちらに向かってくる姿が見えた。

「ちくしょう!」

 翔は更に走る速度を速め、森の中を走った。ヴォルフたちは、先ほどとはうって変わって器用に木を避けながら翔を追ってきていた。実際翔との距離は、少しずつではあるが縮まっているように思えた。

 ただ、奥に進むにつれ木の密集度が増しているのは不幸中の幸いだった。翔が擦り抜けられるような木々の隙間も、図体の大きいヴォルフたちは苦戦しているようだった。しかし、ヴォルフたちが確実に距離を縮め、今にも飛びかかってきそうな勢いで翔に迫っていることは確かだった。

 翔は視界を遮る茂みを巧に掻き分けながら、必死に前へと進んだ。しかし、普通の人間がずっと全速力で走り続けられるわけがない。どれくらい走ったかすでに翔にも分からなかったが、すでに足元は覚束なくなっていた。かといって右や左に逃げる余裕はなかった。振り向く余裕すらない。ヴォルフが確実に近づいているのは後ろから迫る足音で分かったが、いったいどれくらい近づいているのかも分からなかった。

 すると、木々の隙間から目の前に遥か上空まで聳える岩壁が見えた。岩壁は翔を遮るように東西に聳えている。

 万事休すだった。どう見ても、岩壁に辿り着いてしまえば逃げ場はなさそうだった。しかし、今の翔に前に逃げる以外の選択肢は残されていなかった。

 ふと躊躇した瞬間、耳元に何かが風を切る音がした。

 それと同時に、翔は咄嗟に身をかがめ、空を切るヴォルフの斧を間一髪で避けた。

 「くそっ!」

 翔はバランスを崩し、目の前に立ちはだかる茂みを飛び越えるように岩壁の前へと転がり出た。すぐ目の前には岩壁が立ちはだかっていた。翔はすぐさま顔を上げると、とにかく逃げられる場所を探そうと辺りを見まわした。すると、すぐ近くに洞窟が口を開けているのが視界に入った。

 恐らくマサハルの言っていた洞窟に違いないと思った。迷う暇もなく、翔はその洞窟へと走った。狭い洞窟の中に入ってしまえば、ヴォルフの大きい体が逆に不利になるはずだ。それに、もしかしたらマサハルはもう辿り着いているかも知れないという思いもあった。

 翔はもつれる足を必死に動かしながら、洞窟の中へと駆け込んだ。洞窟の中は妙にぬるい空気が流れていた。翔は足を引きずるように洞窟の中を数メートル進むと、息を上げ観念したかのように壁にもたれ掛かり、洞窟の外に目を向けた。

 ヴォルフの咆哮が、鼓膜を破らんとばかりに耳に鳴り響いた。

 しかし、いくら待ってもヴォルフが洞窟の中に踏み込んでくる様子はなかった。

 翔は力尽きたようにその場に腰を下ろし、ヴォルフの咆哮が鳴り響く洞窟の外を、虚ろな目でじっと眺めていた。

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